コミュニケーションを拓いた発明家たち

PostScriptとDTPの発明家たち:デジタルデザインが拓いた視覚コミュニケーション革命

Tags: PostScript, DTP, デスクトップパブリッシング, ジョン・ワーノック, チャールズ・ゲシキ, Adobe, 印刷技術, コミュニケーション革命, 技術史

デジタルデザインが紙とコミュニケーションを繋いだ日

私たちの身の回りには、様々な印刷物があふれています。新聞や雑誌、書籍はもちろん、街のチラシ、会社の報告書、学校の配布物に至るまで、デザインされた文字や図版は情報を伝える上で不可欠です。かつて、これらをプロフェッショナルな印刷所に依頼することは、時間もコストもかかる作業でした。しかし、1980年代に登場したある技術と、それを使った仕組みが、この状況を一変させます。それが「PostScript(ポストスクリプト)」という技術と、それによって可能になった「DTP(デスクトップパブリッシング)」です。

PostScriptを開発し、アドビシステムズ(現Adobe Inc.)を創業したジョン・ワーノックとチャールズ・ゲシキは、コンピュータ上でデザインしたものを、高品質なプリンターで正確に印刷することを可能にしました。これは、単なる文字情報だけでなく、レイアウトや図形、写真といった視覚的な要素を含めた、リッチな情報伝達のハードルを劇的に下げることにつながり、コミュニケーションのあり方を根本から変えたのです。

デスクトップ出版前夜:複雑だった印刷の世界

PostScriptとDTPが登場する以前、高品質な印刷物を作るプロセスは非常に専門的で分業化されていました。まず、ライターが文章を書き、編集者が校正します。次に、組版工が活字を拾ったり、写真植字機を使ったりして文字を並べ、指定されたレイアウトに従って手作業で版を組み上げます。図版や写真は別途作成され、版に組み込まれます。最後に、印刷所でその版を使って大量に印刷が行われます。

この過程は非常に手間がかかり、修正も容易ではありませんでした。特に、複雑なレイアウトや多くの図版を含む印刷物は、高度な技術と多大なコストを必要としました。個人の趣味や、小さな組織がプロレベルの印刷物を制作し、配布することは、事実上困難だったのです。パーソナルコンピュータが登場し始めても、コンピュータ上で作成した文書を、意図した通りの高品質な見た目で印刷することは、技術的に大きな壁がありました。画面で見えているもの(What You See)と、実際に印刷されるもの(What You Get)が一致しない、いわゆるWYSIWYG(ウィジウィグ)の実現が難しかったのです。

PostScriptの仕組み:プリンターを「描画装置」に変えた言語

ジョン・ワーノックとチャールズ・ゲシキは、ゼロックスのパロアルト研究所(Xerox PARC)という先進的な研究機関にいました。ここで彼らは、その後のコンピュータやネットワーク技術に繋がる様々な画期的な研究を行っていましたが、中でも文書のページ記述言語「InterPress」の開発に携わっていました。InterPressは、文書のレイアウトやグラフィック情報を、コンピュータの種類やプリンターの機種に依存しない形で記述できる強力な技術でした。しかし、ゼロックスはこの技術の商用化に積極的ではありませんでした。

そこで、ワーノックとゲシキは1982年にゼロックスを退社し、Adobe Systemsを設立。InterPressのアイデアを元に、PostScriptという新しいページ記述言語を開発しました。

PostScriptは、簡単に言えば「紙の上にどう描画するか」を指示するための「プログラム言語」です。単に文字の羅列を送るのではなく、「この位置に、このフォント、この大きさで文字を描け」「この座標からこの座標まで直線を引け」「この範囲をこの色で塗りつぶせ」といった具体的な描画命令をプリンターに送ります。プリンター側にはPostScriptインタープリターという解釈実行装置が搭載されており、この命令に従って正確に画像を生成し、印刷します。

この仕組みの画期的な点は、以下の通りです。 * 機種独立性: コンピュータやプリンターのメーカーが異なっても、同じPostScriptデータからは同じ印刷結果が得られます。 * 解像度非依存: 文字や図形を点(ピクセル)ではなく、数学的な線や曲線(ベクター)で表現するため、プリンターの解像度が高ければ高いほど、より滑らかで美しい印刷が可能になります。 * 複雑な描画能力: 複雑なレイアウト、多様なフォント、精緻なグラフィック表現を正確に指示できます。

これにより、コンピュータの画面上でデザインした内容を、レーザープリンターなどの高解像度プリンターで、ほぼ忠実に再現することが可能になりました。

コミュニケーションへの変革:情報発信の民主化と視覚化

PostScriptと、それを活用するソフトウェア(例えば、AppleのMacintoshとAldus PageMaker)の組み合わせは、「デスクトップパブリッシング(DTP)」という新しい分野を切り拓きました。DTPとは、文字入力、編集、レイアウト、図版配置といった出版・印刷工程の大部分を、机上のコンピュータで行うことを指します。

このDTP革命は、人々のコミュニケーションに以下のよう具体的な変化をもたらしました。

DTPの登場は、文字と画像が組み合わされた情報を、誰もが「作り」「伝え」「受け取る」プロセスを根本から変え、現代の多種多様な視覚情報があふれる社会の基礎を築いたと言えます。

発明家たちの挑戦と逸話

ジョン・ワーノックとチャールズ・ゲシキの物語は、優れた技術アイデアが必ずしも大企業で製品化されるとは限らない、ということを示しています。ゼロックスでのInterPress開発後、彼らはその可能性を信じて独立を決意しました。

彼らの創業したAdobe Systemsにとって、最初の大きな転機はApple Computer(現Apple Inc.)との協力でした。当時、Appleは新しいコンピュータMacintoshと、家庭やオフィス向けの比較的手頃な価格のレーザープリンターLaserWriterを開発していましたが、Macintoshの持つグラフィカルな表現力をLaserWriterで高品質に印刷するための技術を求めていました。Appleのスティーブ・ジョブズは、PostScriptのデモンストレーションを見てその可能性を確信し、LaserWriterにPostScriptインタープリターを搭載することを決定します。

Macintosh、LaserWriter、そしてページレイアウトソフトウェアであるAldus PageMaker(これもDTPを語る上で欠かせない存在です)とPostScriptが組み合わさったことで、DTPは爆発的に普及しました。AdobeはPostScriptのライセンス料で安定した収益を得る基盤を築き、その後のIllustratorやPhotoshopといったクリエイティブソフトウェア開発へと繋がっていきます。

PostScriptの開発コードネームが「カメレオン」だったという逸話も残っています。これは、PostScriptがあらゆるデバイスや状況に適応できる変幻自在な性質を持っていることを表現したものでしょう。ワーノックとゲシキは、単なる技術者ではなく、その技術がどのように使われ、人々の創造性やコミュニケーションをどう変えるかを見通す先見の明を持っていたと言えます。

現代へのつながり:PDFとデジタルドキュメントの普遍性

PostScriptの思想は、その後のAdobeの技術に色濃く受け継がれています。特に、Portable Document Format(PDF)は、PostScriptの考え方をさらに発展させたものです。PDFは、作成環境に関わらず、どのようなコンピュータやOS、デバイスでも同じ見た目の文書を表示・印刷できることを目指して開発されました。

今日のインターネット上では、様々な種類のデジタルドキュメントがやり取りされていますが、その多くがPDF形式です。ビジネス文書、学術論文、マニュアル、電子書籍など、PDFは私たちのデジタルコミュニケーションにおいて不可欠な存在となっています。これは、PostScriptが確立した「見た目を正確に伝える」という技術的な基盤の上に成り立っています。

また、ウェブデザインやスマートフォンのアプリデザインなど、デジタル媒体における視覚コミュニケーションの重要性は、DTPが登場した時代からさらに増しています。レイアウトやフォント、画像、動画などを効果的に組み合わせ、情報を分かりやすく、魅力的に伝える技術は、PostScriptが拓いた道の上に発展してきたと言えるでしょう。

ジョン・ワーノックとチャールズ・ゲシキ、そしてPostScriptは、コンピュータを単なる計算や文字処理の道具から、豊かな視覚表現と情報伝達のための強力なツールへと進化させました。それは、現代の多様な情報があふれる社会におけるコミュニケーションの基礎を築いた、静かではあるが計り知れない革命だったのです。

まとめ

PostScriptとデスクトップパブリッシング(DTP)は、ジョン・ワーノックとチャールズ・ゲシキという二人の発明家によってもたらされた、コミュニケーション史における重要な転換点でした。この技術は、高品質な視覚情報を含む印刷物の制作を、専門家だけでなく多くの人々にとって身近なものにしました。

これにより、情報発信の門戸が大きく広がり、個人や小さな組織でも効果的にメッセージを伝えることが可能になりました。レイアウトやデザインといった視覚要素が、情報伝達においてより重要な役割を果たすようになり、私たちのコミュニケーションはより豊かで多様なものへと進化しました。

PostScriptの思想はPDFへと受け継がれ、現代のデジタルドキュメントコミュニケーションを支える基盤となっています。ワーノックとゲシキの発明は、単に印刷技術を変えただけでなく、私たちが情報を「作り」、そして「伝える」方法そのものに深い影響を与え、今日のクリエイティブ産業やデジタル社会の発展に欠かせない礎を築いたと言えるでしょう。彼らが拓いた道は、これからも私たちのコミュニケーションを形作り続けていくはずです。